世はすべて事も無し
一章 恋愛考察
夏。セミの声。プールの塩素臭さ。鉄板のようなアスファルト。
何を血迷ったのか土から這い出て、自ら干乾びる道を選択した哀れなミミズの死骸に哀愁を感じながら、今寄りかかっている土手の上ではしゃいでいる小学生の声を聞いていた。はじめに断っておくが俺は犯罪者じゃないから、すぐ上で水遊びを楽しんでいる小学生が目的でこんなところに突っ立っているわけではないということだけは断っておこう。炎天下の中、アスファルトの上で拷問に耐えている理由は、単にここで待ち合わせたってだけの話だ。それにしても遅い。人を待たせるのはあいつの専売特許だが、こんな日くらいは時間通りに来てほしいもんだ。
「おまたー。ひー、あっついねぇ」
そういいながら濡れた髪をタオルでこすっている女。御堂静菜って言うけちなやつだ。今しがたまで小学生に便乗してプールに入っていたやつが暑いとかいうもんじゃないだろう。こっちは汗だくでまってたってのに。
「いいからさっさと行くぞ。ったく、こんなとこで人待たせて、殺す気かお前は」
「なんだよ、男の癖にちっちゃいこと言うなよ。チン○もちっちゃいし」
「ちっちゃくないわ! つーか、女のくせに平気でチ○コとか口走るな!」
「えー、じゃあなんて言えばいいのよ。チ○チ○? ○ンポ? ああ、男根とか、ペニスって手も……」
「少しは恥じらいを持てよ、お前」
「いやだよ面倒くさい。それより早く行こう」
ため息を吐きつつ、自転車にまたがる。行き先は図書館。今日は夏休みの宿題を静菜と一緒にやるということだったのだが、唐突にこの女が予定をねじ込んだおかげで俺はこの炎天下地獄のような場所で小一時間待たされることになってしまったのだ。
「宗氏ぃ。怒ってる?」
「あぁん? 誰が?」
「待たせちゃったこと」
「怒ってるよー。今日は絶対に宿題見せてやらんと心に決めたね。俺は」
「そんな事言わないでよ。宗氏様だけが頼りなんだからぁ」
「知らんね。宿題なんて一人でやれってんだ」
「むぅ。じゃあアイス奢るから」
「安いなぁ」
「お小遣い少ないの! これ以上要求されても出ないって。この辺で手を売っといてくださいよ旦那ァ」
「どうしよっかな」
「あー、じゃあおっぱい触らせてあげよっか?」
「……お前におっぱいなんてあったっけ?」
「失礼な! ありますよーだ。これでもなんとかBはあるんだから!」
「洗濯板だなぁ」
静菜は賓乳だ。高校一年ともなれば、大きくなるやつはたいていその片鱗を見せている年齢だと思うが、静菜はその兆候はまったく見られない。今後もおそらく期待できないだろう。多分血筋だろうし。静菜の母ちゃんもりっぱな扁平胸だったはずだ。
「あーん、お願いだから見せてよぉ」
「どうすっかねー」
そんな感じで俺たちはだらだらと会話をしながら図書館を目指した。
今年の春に地元の何一つとりえのない高校に入った俺と静菜。大体予想していたが、本当に予想通りに同じクラスだった。もともと田舎ということもあって、小学校はそもそも一クラス。中学校でも二クラスしかなかったせいもあるが、俺と静菜はずっと同じクラスだった。幼稚園だけはなぜか違ったのだが、まぁそこは些細なことだろう。都合九年間同じクラスメイトで今年めでたく十年に記録を伸ばしたということだ。まぁ、それが本当にめでたいのかどうかは俺にはさっぱりわからなかったが。
お互い家はそんなに近くもないので、幼馴染というには抵抗が若干あるが、小さいころからこの女とは妙に馬があった。一緒にいると楽しいので周りから冷やかされるのにうんざりしながらも、なんだかずっと一緒に遊んでる。普通小学校高学年ともなると男女でグループが分かれて、実際それは俺の周りでも一緒だったのだが、静菜と俺との関係はそれとは独立して保たれ続けた。
別に付き合っているわけではない。友達以上だとも思ってない。好きか嫌いかで言えばそりゃ好きなんだろうが、別に俺はこいつの恋人になりたいだなんて一度だって思ったことはないのだ。まぁ、今のところそういう関係。
「うー、宗氏教えてよー」
開始十分で根を上げた静菜。コイツはそもそも自分で考えようという発想がない。馬鹿の典型だ。頭の使い方を知らないから、いつまでたっても自分ひとりで解決できない。学校って言うのは知識を集める以上に、その頭の使い方を学ぶ場所だと思うんだけど、そういう認識はそもそも持っていないようだ。俺もそれをわざわざ言おうとも思わない。興味のない事柄に積極的に頭を動かせるやつなんていない。我慢して覚えようとするなんて、変態的な趣味だとしか思えない。
「はいはい、どこだよ」
「ここ」
「……おい、静菜。教科書調べればわかる問題を俺に聞くな」
静菜が聞いてきたのは地理の問題だった。暗記系科目は頭使う必要がないんだから、せめて調べるくらいは自分でやってほしいと思う。数学や物理みたいに頭使う科目ならばともかくだ。
「えー、でも教科書もって来てないし」
「お前ここに何しにきたんだ?」
「ん? 涼みに」
断言した瞬間に教える気が失せた。こんなあほにこれ以上付き合ってられるか。こっちだってまだ課題は多少残ってるんだから。
「その辺に資料ならあるからとってくるんだな。幸いここは図書館だ」
「宗氏地理なんて終わってるんでしょー。見せてよ見せてよ見せてよー」
しつこくすがりつく静菜の声が少しうるさい。この町にはあまり図書館を利用するやからはいないのか、貸切みたいなもんだから館員もかおはしかめてるけど注意はしないが、俺の常識まで疑われるのはかんべんならない。
「とりあえずそのページだけでも調べろ。そしたら五分間だけ貸してやる」
「面倒くさいなー。ま、しかたないっか」
何が仕方ないのか知らないが、とりあえずやる気が少しは出たようだ。全部やらなければと思うから筆が進まない。目先の手近なところに目標を定め、これさえ終わればあとはやらなくていいと思えば、少しは気が楽になるだろう。まぁ、どのみち宿題全部静菜が自力でやりきるなんてどうあがいても不可能。最終日にすべて俺のものを丸写しにするよりはいくらか学習効果はあるだろう。あくまで何もやらないよりはまし、という程度には。
適当に本を見繕って持ってきて、それを眺めながらこらえ性のない静菜はすぐに話しかけてきた。図書室に来てる意味がないな。わかっていたこととはいえ再確認する。
「宗氏さぁ、約束の日、今日でしょう? どうするの?」
約束の日。その単語にシャープペンシルが止まる。
「取りあえず行くけど。それがどうかしたか?」
「んー、別にどうもしないけど。ただ、やっぱり志摩子さんの事好きなのかなぁって思って」
「どうだろうな」
夏休みに入ったのが三日前。終業式が終わった後、静菜経由で一個上の先輩が俺に話があるとやってきたのだ。はじめ静菜と俺が付き合ってるのかどうか聞いて、それから違うという話になると付き合ってくれないかと申し込まれた。返事は三日後。月曜日の夕方にと言うことで、つまりは今日なわけだ。
笹川志摩子と言う先輩の事を俺はよく知らない。わかっているのは外見上の情報だけだ。まぁ、見た目は結構美人で一つだけとはいえ年が上だけに大人びて見えた。悪い人にも見えなかったし、付き合うのに断る理由もない気がする。
「……はっきりしないね。でも、OKするつもりなら、その日に私なんかと図書室来るのはどうなのって感じじゃない?」
「なんで?」
「ほら、これでも私一応女なわけだし、あんたはどうか知らないけど、少なくとも向こうはいい気がしないと思うな」
「そんなもんかな」
正直よくわからない。静菜とは男女の関係じゃないし、なりたいとも思ってない。仮に付き合うとして、コイツとの関係を勘ぐられるのはお門違いだ。
「でさぁ、どうなの? OKするの? しないの?」
静菜はしつこかった。そんなことより勉強しろよ、お前。
「どうでもいいだろ、そんなこと」
「よくない」
「なんで?」
「だから、さっきも言ったけど、あんたがよくたって向こうは他の女と会うの嫌がるだろうって話よ。付き合うってなったら、宗氏と今までどおりの関係ってわけにも行かないでしょ?」
「……なぜ?」
静菜が何を言いたいのかよくわからない。コイツはいったい何を危惧しているんだ?
「本当朴念仁ね。まぁ、そんなんじゃ付き合ってもすぐ破局するわ」
「そんなもの付き合ってみるまでわからんだろうに」
「わかるわよ」
「お前の意見にはいつも根拠がないからなぁ。疑わしいもんだ」
「わかるっての。このばーか」
馬鹿にされたようだがなにを持って俺をばかにしているのかわからないから負け惜しみにしか聞こえなかった。取りあえず、地理の宿題のノルマはもう一ページ追加することとしよう。
図書館で三時間ほど課題に集中した後、えっちらおっちら自転車を漕いで志摩子先輩との約束の場所までい行く。町を見下ろす高台。特に観光地というわけでもないが、一応整理されてちっこい田舎の町を見下ろすにはいい場所だ。ただ、自転車で行くのはとてもキツイ。
息を切らしながら全身汗だくで広場につくと、平日のこんな時間だけあって人影はほとんどなかった。というか、いなかった。当の先輩もまだ来ていないようで、俺は高台のへりまで行くと自転車を置いて町を見下ろした。風が吹いて汗をかいた肌が涼しい。いっそのことずっと吹いていてくれれば快適なのだが、弱々しい風が時々吹く程度だった。
しばらく町を見下ろして、自分の家の場所だとか、高校の場所だとかを確認していると、背後で人の気配があった。振り返るとワンピース姿の志摩子先輩が、こちらに歩み寄ってくるところだった。離れた場所に車が止まってるから、多分あれで来たのだろう。送ってきたのは親御さんだろうか? うちの親なら確実に訝しむ状況だが、志摩子先輩の親御さんは心が広いのだろう。まぁ、本当に親かどうかなんてわかったもんじゃないが。
「来てくれたんだ。待った?」
「いえ、それほどは」
「そっか。よかった」
志摩子先輩はそう言って僕の横に並ぶ。
「私、ここからこの町を見下ろすのが好きでね、よく連れて来てもらうの。学校からも結構近いから、帰りに寄ったりしてね」
「確かにいい眺めですね」
「こんな小さい町なのに、出て行くのは大変で、中にいるといろんなしがらみがある。それが時々辛くなっちゃうのよ。だから、ここから見下ろして、こんなちっぽけなところで悩んでいるなんて馬鹿みたいだぞって自分に言い聞かせるの。そうすると本当にそんな気になっちゃうのよね。君はどうかな?」
「どうでしょうね。俺はもともとこの町なんかちっぽけだって思ってるから。見ても確認するくらいの意味しかないかもしれないです」
「そっか。君は強いんだね」
「客観的なだけです。多分」
それは強いとか弱いとか関係ないだろう。ものの見方の相違だ。
「……はぁ。あのね、返事を聞かせてもらえる?」
意を決したようにこちらを見つめる志摩子先輩。しょうがないので俺も見返す。
「付き合うのなら、お断りする理由がありません。ただ、何分俺は先輩の事何も知らないんで、実際好きも嫌いもないんですけど」
「それはそうだと思うわ。急な話だったし。私もどれだけ君のことを知っているかなんて、自信ないもの」
「じゃあ、なんで俺を?」
「一目ぼれ、かな。周りからは無理だって言われたんだけど、黙っていて後悔したくもなかったし、駄目元だったんだけどね。御堂さんはいいの? 本当に付き合ってないの?」
「よく誤解されますが、あいつは友達です」
「そうなんだ。ふぅん」
「ところで先輩。たった今気づいたんですけどね」
「何?」
「付き合うって、具体的に何をすればいいんでしょうか?」
恋愛初心者で予備知識も何もない俺は、このとき恥ずかしげもなくそんな事を口にしていた。
取りあえず夏休み中ということもあり、どこか遊びに行こうかと言う話になった。具体的に言えば海か山。だがまだ高校生で実家が貧乏な俺はどちらもかなり厳しいと告げると、近場でもいいよと言う話になった。まぁ、確かにド田舎で山なら掃いて捨てるほど周りにあるわけで、登ろうと思えばいくらでもあった。ただ、志摩子先輩があまり体力がないようなので、山登りよりは水場で涼むほうが言いと判断し、それならばプールでどうかと言うことになった。少しだけ水着姿が拝みたかったというのもある。さすがに町内のプールだと知り合いに会う確率も高いし、ただ泳ぐ以上のこともできないということで、電車で四駅行ったところにある、レジャー施設に行くことにした。取り立てて予定もないということで明日すぐに。
後は休み中であまり逢えない事もあるし、お互いの事を知るためにもメールのやりとりをしようということになった。だがここでも一つ問題が発生。俺の家はなんと携帯電話の電波が届かないのだ。田舎も大概にしろといいたいが、届かないものは仕方がない。まぁ、一応野外に出ればアンテナはナントカ立つのだが、逆に言えば出なければいつ着信が来たのかもわからない。初めは電話にしようかという話もあったが、それだと電話代が馬鹿にならなそうだったので、基本的にはメールのやり取り。ただ、はじめる時間を毎日決めることにした。午後九時になって俺が着信を確かめ、来ていればそれに返信を、来ていなかったらこちらから送るという形だ。
そんなわけで一日目。九時になって外に出る。今日はいいけど雨の日は使えないがそのときは別の代替策を考えなくちゃなあとか思う。インターネットくらい入れるようにしたいのだが、今のところブロードバンドも入れられないうちの回線状況では、経費の無駄だと思ってるようだ。メールのやり取りだけならナローバンドでも十分だと思うが、息子の恋路のためにじゃ多分入れてくれないだろう。自分で開設するだけの金もないし。
センター問い合わせで、着信が一件。ただし相手はなぜか静菜。
{結局どうなったの?}
本文はたったそれだけ。よほど気になってたと見える。しょうもないなと思いつつ、こちらからも短く返信を返した。
{付き合うことにした}
今は静菜の相手をいている場合でもない。ともかくまだあちらから応答がない以上、こちらから出さなければならないのだが、はてさてなんと送ったものか。そもそもメールのやり取りなんてマトモにやったこともない。男同士だとやり取りは事務的且つ必要最小限だし、ほとんど唯一の女の知り合いである静菜にしても以下同文。気心が知れているからあまり言葉が必要でもないのだ。
それが志摩子先輩となると、こっちからは何を聞いたものかもわからない。何せ何も知らないんだから。
そうやってうんうん悩んでいるうちに、静菜からまた返信が来た。
{オメデトウ、末永くお幸せに}
気が早いやつだ。ただ付き合うって決まっただけなのに。まあ、礼くらい言っておくかということで、また短く返信。
{ありがとう。お前もいい人見つけろよ}
そんなことより本文だ。ああ、何を聞けばいいんだ? いきなり変なことを聞いても……。
その夜結局やり取りが始まったのは、一時間もたってからのことだった。
プール用具一式を持って待ち合わせの駅前へ。今日はどうやら先を越されたようで、志摩子先輩は俺の事を待っていた。昨日と同じワンピース姿だが、トートバッグを一つ持っているのが違いといえば違い。多分あの中に水着とかが入っているんだろう。
「待ちましたか?」
待ち合わせ時間ちょうどのはずだから、遅くなったというのはこの場合おかしいだろう。志摩子先輩は首を振ると今来たところだと笑っていった。なんだか本当に昨日の焼き直しみたいだ。
「電車、もうすぐきちゃうから早く行きましょう」
「そうですね」
挨拶もそこそこに切符を買って駅の構内へ。今日も天気は快晴で、まだ午前九時だって言うのに日差しはいやみなほど照り付けてくる。夏は嫌いだ。
「宗氏君は、泳ぎって得意なの?」
ちょっと唐突気味聞かれ、首をかしげる。
「さぁ、どうでしょう。別段それほど得意ではないですけど。まぁ、泳ぎ方にかかわらず百メートルくらいなら泳げます。水泳部に比べればへたくそで遅いですけど」
うまく泳ぐというのはそれはそれで難しいのだ。うまいやつの泳ぎを見ているとそれがよくわかる。だから得意などとは間違っても口にはできない。
「そっか。実は私カナヅチなんだ」
「泳げないんですか?」
「うん。プールの授業はいつもいろいろ言い訳してサボってるから」
高二にもなって泳げない人間もいるんだなと少し感心しながら、まぁ、そのほうが都合がいいかと思ってみたりする。ここで志摩子先輩が俺より泳ぎが上手だったりすれば面目は立たないし――立てようと思ってるわけでもないが――まして体育会系のノリで競争しようなどといわれたらついていけなくなりそうだ。
「まあ、水遊びするくらいならいいでしょう。なんだったら教えますけど? いい加減でよければ」
「ええと、じゃあお願いしよっかな」
うれしそうに笑った先輩はなかなかかわいい。しかし、この先輩はいったいどこで俺なんかに一目ぼれしたというのだろうか。ぜんぜんわからん。
「あ、電車来ましたね」
「そうですね」
黄色い線の内側までお下がりください、と言うおなじみのアナウンスが聞こえ。減速した電車が目の前に停車すると、先輩は俺の手をつかんではしゃぐように開いたドアに入っていった。
俺と先輩の一回目のデートは、なんだか特にこれと言うこともなくつつがなく終了した。楽しかったかと聞かれれば楽しかったし、行ってよかったかといわれればよかったと答えられる程度には実りあるものだった気もする。先輩はずっとはしゃいでいたし、水着姿はなかなか刺激的だったし、悪い日ではなかっただろう。ただ、疲れた。
先輩は明日も一緒に行きましょうとか、見た目に似合わず意外とタフな事を言って来たが、俺の方がギブアップ。先輩には悪いが予定があると言って断った。そしてだったら明後日と言った先輩の言葉を断る事は不可能だった。明日一日でなんとか体力を回復せねばなるまい。
「ぐぅうう、体中だるい」
明日は筋肉痛かなと運動不足な自分の体に悪態をつきながら自転車を漕いでいると、前方にある公園の前で見知った顔がぼんやりとつったっていた。夕暮れ時でひぐらしがカナカナと鳴いているのも相まって、非常に哀愁が漂って見える。
「静菜そんなところで何黄昏てんだ」
「あ、宗氏……。どこ行ってたの?」
「先輩とデート。正直死ぬかと思った」
「……昨日の今日でもうデート? 意外と頑張ってるじゃない」
「志摩子先輩がものすごいアグレッシブでな。見た目おしとやかなんだが」
「好きな人と付き合えるってなったから、きっと浮かれてるんでしょう」
「にしてもプール一日はキツかった」
「男の癖に情けないわねぇ」
「悪かったな。で、お前はここで何してるんだよ」
「べっつにー。ただ散歩してただけ」
「暇人だな。今からやらんと課題終わらんぞ、お前」
「宗氏の見せてもらうからいいじゃない」
「はぁ、他人に頼るなよ。ロクな大人にならんぞ」
「ああ、そうだねぇ。少しは私も私のこと考えなきゃ」
「うんうん」
「宗氏ぃ」
「あん?」
「志摩子先輩とはうまく行きそう?」
「どうだろな。先輩、お前が言うとおり今は舞い上がってるだけみたいな気もするし、俺の事がわかってきたらどうなるかって事じゃないかな」
「宗氏はどうなのさ。やってけそ?」
「今のところはノーコメント」
「そ。ま、頑張りなさいよ」
「おう」
そんな感じで別れてそれぞれの家路に着く、はずだったんだけど……。
「宗氏」
呼び止められて振り返る。寂しげな顔をした静菜がとぼとぼと近づいてきて、うつむいたまま俺の腕を掴んで黙り込む。汗ばんだ肌に感じる静菜の手のひらはやっぱり汗を掻いていて、その上妙に暑かった。
「どした? 腹でも痛いのか?」
アイスでも食べ過ぎたのだろうか。暑いからって抑制という言葉を知らない奴だから、夏場に腹痛なんて日常茶飯事だろう。前に自己申告していたくらいだし。だがそれで俺を頼られても大変に困る。いや、公園の公衆トイレは臭くて汚いから近場の我が家のトイレを借りたいというならばまぁ、貸さないことも無いわけだが。
「……やっぱり、私駄目」
「ん? ああ、宿題なら終わらなかったら見せてやるからそこまでしょぼくれなくても」
「違う、馬鹿!」
腕を握る手に力が込められて、食い込んだ爪が少々痛い。
「じゃあ、なんだよ」
「……私、宗氏とずっと一緒じゃなきゃ、やっぱり嫌だよ」
とぎれとぎれに、らしくもなく小さな声で恥じらうように静菜はそんな事を言った。
「私、宗氏の事――」
こちらを伺うように上目遣いに視線を向けた静菜は、今まで見たこともないような表情で、頭が完全に凍結した。
「ああ、もう! なんか言ってよ。すごい恥ずかしいんだぞ、こっちは」
そう言って腕から手を離すと両手で頬を押さえる。
「…………」
そんな事言われても知るか。不意打ちもいいところで爆弾発言されて、そもそも静菜にそんな乙女回路が備わっていたのかとか、俺の事そんな目で見ていやがったのかとか、言うならもう少し早く言えよこの馬鹿とか、まぁ、そんな事をかなり高速で思考して、それから現実逃避に空を見上げてみた。
ここでUFOでも飛んでいてくれれば、夢なんだなと納得も出来よう。だが、空を見上げても飛んでいるのはカラスくらいなものだった。
「冗談……じゃなさそうだな」
すごい顔で睨まれたので訂正。はいはい、本気かどうかなんて見れば分かる。余人ならぬ静菜の言葉ならば九割方真贋鑑定できるし。
「……私も、こないだまでは全然宗氏の事そんな風に思ってなかったんだけどさ、志摩子先輩が宗氏のこと好きだって聞いて、それで宗氏が取られちゃうって思ったら、すごく嫌で。別に宗氏が他の女の子と話していても何も感じなかったのに、はっきり好きだって言う人が現れて、それで、私気づいちゃったみたい。でも、宗氏は全然平気みたいだし、むしろ志摩子さん綺麗だから若干デレってるし。本当は昨日言おうと思ってたんだよ? でも、やっぱり色々考えちゃって、プールで頭冷やしてみたけど全然駄目で、せめて断ったならそれでも良かったんだけど、なんか宗氏OKしちゃってるし」
「……で、結局堪えきれずにか」
静菜の性格ならそうなるだろうと言うことは一瞬で把握できた。聞かなくても分かるってのに、いちいちしゃべるのは弁解がしたいから。三年に一度あるかどうかの本気謝罪モードだ。
「はぁ〜、けど今更そんな事言われてもなぁ」
「やっぱり、志摩子先輩の方がいいんだ。そうだよね。私なんか胸ないし、可愛くないし」
「確かに物件としては志摩子先輩は破格だよなぁ」
あのレベルの人とつきあえるフラグなんて、人生でこれっきりかも分からない。そう思えばもったいなくはある。
「……変なこと言ってごめん。忘れて」
「無理だろそんなの」
「忘れろ!」
「出来るか」
「じゃあ、今の嘘。無し!」
「だから無理だって」
「無理でも何でもいいから、とにかく、……とにかく忘れて」
絞り出すように言った静菜の顔は涙なんか浮かんでいて、そう言えば泣き顔見るのもかなり久しぶりだなんて事を思い出す。そんな顔するなっつーに。
「正直に言えばよ、やっぱり俺はお前を女だって見たこと一度もないし、つきあうとか論外だろ、とか思ってるわけだ」
「――――うん」
「でも、まぁ親友……くらいには思ってるし、誰と付き合うことになろうが、お前とは関係無しにずっとそう言う関係でいられればなぁ、とか思ってたんだ」
「……でも、そんなの無理よ」
「だったみたいだな。やれやれ、しかし静菜がねぇ」
「何よ、馬鹿にしてんの?」
「ちょっと意外だっただけだ。女心は分からねーもんだな」
「……やっぱり馬鹿にしているでしょ?」
「してないって」
「どうだか」
「ただちょっと困ってるのは確かだ」
「……」
「別に今のところ俺としてはどっちが好きって事もないけど、静菜を泣かせたくもないし、かといって今更志摩子先輩に断り入れるのも気が引ける」
「だから、私の事は別に……」
「好きかどうかは知らないけどな、割とお前は大事な奴なんだよ。俺にとって。だから、まぁ、割とうんざりするけど答えははじめから決まってんのかね。ちょっと愚痴言いたくなっただけだ」
「――――」
ついに静菜の目からは涙がだだ漏れになって、ぽろぽろと零れるのをあきれ顔で見つめてみる。一体どこからそれだけの涙が出せるのか、あくびをしてもろくに涙が出ないドライアイの俺は質問したいくらいだった。
「しかし、まぁかといってお前と付き合うってのもなぁ」
「何、よ」
「ん、とりあえず先輩には俺から詫び入れるから、お前との話はその後だな」
「いいよ、私から謝っておくから。なんか、出汁につかっちゃたみたいだし。この場合、どう考えても悪いの私だし」
「お前が言えば角が立つだろ。どろどろした感じになるの嫌なんだよ」
「わかった」
「とにかく今日は帰って……、なんか急に暗くなったな」
ふと空を見上げると厚い雲が空にかかっている。発達した積乱雲が上空に。直ぐにでも夕立が降ってきそうだ。
「濡れる前に帰るか」
「……ごめん、悪いんだけど付き合ってくれる?」
「なぜ?」
「このまま別れると、ちょっと色々怖くて。だから、今の内に話をちゃんとしておきたいって言うか」
「まぁいいけどさ。近いから俺の家いくか?」
「うぅん。私の家がいい」
「へいへい。じゃあ行くか……」
そう言った途端、大粒の雨が降り始めた。全身が一瞬でずぶ濡れになって、ふたり顔を見合わせて肩をすくめる。視線で暑いからまぁいいか、くらいな会話を交わして自転車をこぎ始めた。
このとき、俺たちはもう少し慎重であるべきだったんだと思う。
志摩子先輩の事に関しても、俺たちが付き合う云々に関しても。
何より、夕立で雷が鳴っているときに、雨宿りくらいはするべきだった。
厚い雲に日が遮られ、さらに大粒の雨で悪かった視界が、一瞬だけ白光に包まれてものすごい衝撃が全身を突き抜け、僕ら二人は地面に転がった。視界が暗転し、何が起こったのか理解できないまま、最後に視界を掠めたのは、なぜか倒れ込む自分の姿だった。